titotito’s blog

興味あるもの、生業としたもの、趣味のもの:grantmaking, inter-national-cultural-societal-sciences, loves; films, dogs, camping, eating, collecting; tenugui, playing cards, rock salts, books, beads etc.

とりあえずスポーツについて考えるブログ『異文化・社会におけるスポーツ種目の斑模様』 その三

承前
2)生物的自然。生態系もしくは風土。
生態系とか風土とよばれるものは、無生物界と生物界の合流する薄い地球表面周辺にある、汽水域のようなものだ。多くのスポーツは、そうしたところで展開する。人間の営み全てがそうだからだ。
「その一 芝生」に引き続き、「馬」について、始める前に
筆者は競馬も、馬術も、趣味としていないが、今回の項をかくにあって、本やネットをざっと調べていて、犬や猫ほどではないとしても、競馬や馬術のせいか驚くほど「馬」を巡る詳しい記述が多いことに気付いた。
鉄道や山のように専門書店が日本にあるかどうか知らないが、実感として、普通の大型書店でも、馬の本は、競馬は別として、ヒトにとって馴染みのある他の動物に比べて特段に多いわけではないと思う。
でも、よく考えると、馬と人間の関係は、競馬、馬術だけでなく、結構多様だからかもしれないと思い当たった。では。
その2 馬。
海豚に乗っている姿は古代で彫刻にもなったが、何故か近代のスポーツには残らなかった。馬に乗ることはスポーツの一大分野になった。車や橇を牽かせることもスポーツになった。
諸説あるが、馬は結構な昔から、地球の温かな草原地帯のあちこちに生息していたが、人のかっこうの餌食になり一時期希少種となった。人間との不運な関係は、もしかしたら牛や豚より桜肉の方が早いかもしれない。そうした、食材の一つであることも、奥深いところでの、親しみの原因の一つと書くと顰蹙をかうかもしれない。
ところが、その後、馬にとっては、最終的に幸か不幸かは定かではないが、人間にとっては皮肉なことに地球の寒冷化が始まり、知恵のあった人々は馬に、直接的な食材としてよりは、より多くの食材を得るために、温かい新天地を求めての移動手段、あるいは、狩り運搬農耕の助けとして、馬を利用するようになり、復興したようだ。
しかし、間もなく、残念なことに、賢くも懲りない人間は、食を得るための馬にとどまらず、人と戦うための馬や、戦車を牽かせ兵糧を運ばせるための馬の優位性を見出した。人馬一体となった技を磨き、戦士を誕生させ、騎士道のみならず爵位までも産み、貴賤を通底させる装置にまでになった。
そうした中から、やがて近代に近づくにつれ、乗馬、ポロ、競馬、輓馬といったスポーツが出現した。
例えば、多くの陸上動物も食していた世界の辺境、日本でも、少なくとも魏志倭人伝」の頃、牛馬はいなく古墳時代」に渡来し、鹿や猪などと同様に食されたようだ。
しかし、仏教の浸透階級差などによる禁忌や衛生感使役の優先などにより、を含んだ魚類以外は、結果的に明治まで食されることも限定的になったようだ。
「山くじら」「ももんじ屋」「ぼたん」「もみじ」、そして「さくら」といった符牒が残った。
とまれ、かつて半世紀前の日本で一世を風靡したのが江上波夫の「騎馬民族征服王朝説」だし、その日本の馬も、最近の歴史再検証もののおかげで、明治までは小ぶりであったことが広く知られるようになった。
様々な種類の馬の分布の偏りや歴史の長さがそれぞれの馬に関連するスポーツのそれぞれの地域差を生んだことは間違いない。
かように、馬と人間の関係については、犬・猫・牛・豚・羊・鶏といった家畜の中でも、とりわけ入り組んだ歴史がある。ここでは深入りは避けるようにしたいが、いくつか今回のスポーツの考察と直接的に関係のある話題を備忘録的に書きとどめておきたい。
a. 西部劇
つづく

 

とりあえずスポーツについて考えるブログ 『異文化・社会におけるスポーツ種目の斑模様』 その二

承前
2)生物的自然。生態系もしくは風土。
無生物界と生物界の合流する薄い地球表面周辺にある、汽水域のようなもの。
その1 芝生。
ついこの間まで、サッカー、ラグビーもほとんど芝生の競技だった。ローンテニス = lawn tennis から庭球という言葉が生まれた。
少し、語義を刈り込んでみたい。
芝生もしくは芝とは
lawn は ターフ = turfピッチ = pitchフィールド = fieldグリーン = green、といった日本でもよく聞く同義語もしくは類義語が多い。仔細は別の機会にしたい。
lawn の意味をOED = オクスフォード英語辞典では
「An area of short, regularly mown grass in the garden of a house or park」と
まず、area =(区切られた) 区画
次に、short = 短く
そして、regularly mown = 定期的に刈り込まれた
さらに、in the garden of a house or park = 家か公園の庭の中
と多くの限定をつけながらも、きわめて大雑把に、grass = 草
と説明している。
15.16世紀の中世から英語として使われ始め、18世紀半ばから定期的に刈り込まれたた草という現在の意味になってきたらしい。
念のため、他の辞典もみてみる。
Cambridge Advanced Learner’s Dictionary & Thesaurus では、
an area of grass, especially near to a house or in a park, that is cut regularly to keep it short
Merriam-Webster では、
ground (as around a house or in a garden or park) that is covered with grass and is kept mowed
殆ど同じだ。
逆に言えば、芝が grass芝生が lawn ということになる。
雑草は weed で、grass は 牧草、芝、マリファナといった人間に近いヒトに馴らされた家畜ならぬ家草とでもいったらよいのだろうか。
要は、芝生ヒトの手間暇、金が掛かるもので、ましてや「自然」に芝が育たない環境、地域では膨大な手間暇、金が掛かる。芝生スポーツの国際化にとって人工芝とのハイブリッドはもとより、品種改良が大きな課題であったことは間違いない。一時代前、柔道の国際化にとってイ草の畳は阻害要因の一つだったのと同じだ。
サンフランシスコ講和条約、懸命に海外の社交界の仲間入りを果たすべく奔走した日本の商社員、企業戦士達が、僅かばかりの「余暇」の片鱗を味わいながら、腐心した彼の地での会員権獲得の延長に、日本での欧米諸国並みおもてなしとして奔走したのがゴルフ場の確保だ。黄色や薄茶のグリーンではあまりにも哀れだった。
元々日本に始まったものではなかった。大英帝国から英連邦にいたる芝生の歴史には幾多の論文があってもおかしくない。米大陸、豪大陸の初期植民者の開拓記録には芝生やメドウらしきもの新大陸に見い出したときの興奮や望郷の念、移植の労苦が垣間見られる。米国テレビドラマを見ていると、時に、そうした時代のトラウマが現在でも、前庭での芝刈り技術の蘊蓄や憧憬とし残っている様がみられる。
温帯や亜寒帯の地はともかく、米国南部はもちろんのこと、南アジアやサブ・サハラ・アフリカ諸国における気候を無視した、照り返しに輝くようなコロニアル建築とグリーンの風景をみると、人間のあまりの業の深さを感じる。
「The grass is always greener on the other side  隣の芝生が青い」という格言の由来を調べてみると、オクスフォードの格言辞典でも由来自体が書いてないとする記述が大半だが、ネットのサイトで目を惹いたのは、英語母語と思しき人が、緻密な長文をもって、光学的に、遠くなれば、緑はより緑にみえるので、原初的なことであり、問うても意味がないとした投稿をベースにした長い遣り取りだ。

緑がより緑に見えるのが原初的なものだろうか?
「文化的独善」といわないまでも「価値観」の陥穽だ。芝生がより青い、もしくは緑であることが優位であるとは古今東西において原初的なものだとはいい切れない
この格言には最後に「of the fence」がつく場合もあるが、その場合は「fence」の両側に「green」が一般的な情景になった「後」にできた格言だろうし、「of the hill」がつく場合は、そうした風景自体と風景観の登場、もしくは、牧畜での牧草の色による優劣観の登場以降といえよう。ここでは深入りは避けよう。
民衆にとってセレブに欠かせない当たり前の舞台背景であり、セレブにとっては当たり前の舞台環境としての芝生

芝生があっての環境の中でしかあり得なかったスポーツが、国際化によって失ったものは多いに違いない。それは丁度、柔道着がカラフルになり、グローバライゼーションと引き換えに、多かれ少なかれ失っていったものと似ているかもしれない。
しかし、翻って考えると、もともと芝生も、馴化された野外、野生だ
グローバライゼーションを待たずとも、ヒトにのために馴化されていない空間や場でのスポーツはそれほど多くない

その二 馬。

続く

 

とりあえずスポーツについて考えるブログ『異文化・社会におけるスポーツ種目の斑模様』 その一

オリンピックが続いたということもあるがスポーツについて考えることが多くなった。多くの関心が期せずして繋がるからだ。非営利組織、国家論、プロフェッショナリズム、身体・言語表現、公正・公平・平等観といったことの関心だ。、、、

少しまとめ上げていこうと思う。ブログは性懲りもなく多産してきたが、はじめてhatenaを使ってみようと思う。

「観るスポーツとするスポーツの違和感」「絶対審判とフーリガン」「非営利とアマチュアリズム、ボランタリズム」といったテーマを最初に考えているが、様々な視座を整理する意味でも、先ずは「異文化・社会におけるスポーツの斑模様」からはじめたい。
オリンピックをみても明らかなように、国や性別をはじめ文化的、社会的背景の異同によって、好まれ、普及している種目が違う。そのことを少し考えてみることによって、併せて、このブログのテーマを見繕っていきたい。逆にスポーツや国、文化、非営利といったものの本質を浚ってみたい。
とりあえず「スポーツ」とは「スポーツ番組」や「スポーツ・チャンネル」などで「スポーツ」として扱われるもの「すべて」、と緩く範囲を決めておきたい。
では様々なスポーツの背景について考えはじめたい。
 
1.≪間接的環境―経済格差≫
貧者のスポーツと富者のスポーツの別があるのは明白だ。 施設、道具、空間、時間すなわちは金の大小によって左右のされ方の度合いの違いが種目により様々だ。
競泳、飛び込みのような競技の「場」がプールや飛び込み台といって特別仕立てのものが必要なものから、陸上のように身一つに近い競技まである。基本的には社会の経済力に先ずは左右される。
ヨットやボート、自転車や自動車、馬や駝鳥、果ては飛行機まで、人力のみやエンジン等によって動く乗り物、空手からライフルまでを使って戦うものまで、様々で、そうしたものが容易く入手できるかは基本的には個人の経済力だ。
例えば、日本からプロのアイスホッケーチームがなくなって久しい。国土や西武といった名前を知らない世代も増えてきたし、アイスホッケー場自身も消えていっている。
他方、レッドブル・エアーレースが日本で開催されるようになった。因みに、レッドブルはタイ起源のものにオーストリア人が日本のリポビタンDに着想を得て20世紀末に開発した「エナジー・ドリンク」という新興企業でモータースポーツをはじめ数多のスポーツをスポンサーしている。
オリンピックのみならず、多くの種目においてオリンピック出場権の一過程になっている国際大会の殆どが世界各地で開催されるため、移動費の負担に耐えられるかどうかも問題だ。今回のオリンピックでもナイジェリアのサッカーチームも給与がもらえず、高須クリニックが報奨を出すほどの事態になったが、そもそも、飛行機代を払えず、予定のフライトに乗り損ねたことから騒動が始まった。
時間という問題もある。2年おきの世界大会、ましてやオリンピックのような「祭典」は4年という長期周期故に、準備、整調のために企業や国家の支援の有無が「参加」の可否を含めての決定的要因になっている。
かつてのオリンピックでは「アマチュア」が基本であった。生計を得る「本業」があることが前提だった。大会出場のためはもとより、練習のための休暇取得すらとれないのが通常の生業だ。ボランティア活動でいわれることに似ている。
しかし、一部の企業が好んでか、利用するためかの理由はともかく、結果的には勤務時間の一部はもとより、全部を使用してのスポーツを認め始め、アマチュアリズムの境界が論争になっていった時期はまた、奇しくも、社会主義が勃興する時期として、スポーツ選手をも含めてなべて国家が雇い主として本格的に「労働者」として雇うようになり、揶揄と憧憬の入り混じったステート・アマチュアリズムという言葉が生まれるに至って、もはや論議は韜晦というしかなくなった。
報酬といった金銭のようなものにとどまらず、ハードやソフト両面にわたる現物供与も、ますます膨らんでいる。
靴や服装、用具にメーカーのロゴは溢れているし、目をつけられた選手には装備にメーカーが多大な手間暇金をかけているかといたことのみならず、様々な専従スタッフの派遣やデータの提供、提案などの「ソフト」面のサポートの逸話も年を追うごとに激しくなっている。
また、企業と言わず、例えば、リオのオリンピックでは日本政府が選手団のためにリオ・デ・ジャネイロ現地に建設費だけで8億円の「ハイパフォーマンスサポート・センター」を設置するなど、現場サポートだけでも1年度につき30-40億円かけているように「国家」のサポートも桁違いに「潤沢」になっている。日本選手団は338人だったので一人当たり年間1千万円以上だ。
 
2.≪直接的環境―自然、風土、世情≫
1)気候・地理もしくは鉱物的自然。
自然環境に左右されるスポーツもある。気候帯や地理の違いによって生じる、雪や氷の有無を始め、海や河川、平地や山地の有無、違いだ。
地球の球面表層という「舞台」とそこで気体循環、温度循環などによって起きる「ドラマ」の絡み合いによって左右されるスポーツだ。
 
その一 雪・氷。
ジャマイカのボブスレー・チームが映画「Cool Runnings」にまでなったことから象徴的に分かるように、冬季オリンピックの参加国、参加者を増やすのは容易くない
映画といえば古くは「Skis Against the Atom 原爆に抵抗するスキー」あるいは「But for These Men この男達なかりせば」がなければ、テレマーク滑降が北欧以外のスキー愛好者に知られることはなかったろう。
生涯、雪を味わうことがない人々、凍った水面の感触すら知らない:人々の数は少なくない。ましてや世界で「冬スポーツ」を楽しめる人の数は多寡が知れている。雪山や雪原でのスキーや橇が日常生活の一部となっている人達がいるとしても、全世界70億人弱の中では極めて少ない数の人達だ。
逆に、雪や氷のない国々でこうしたスポーツをしている人達は、経済的に恵まれているセレブの親兄弟がいたりパトロン・スポンサーがいるからこそであるというのが現実だ。
冬スポーツに限らず、どのスポーツも、「プロ」もしくは「生業」としてない限り、大なり小なり、様々なパトロン・スポンサーが「支えている」。教師やインストラクター等としてスポーツを生業としている人達は勿論のこと、企業の社員としてスポーツを続けている人達もスポーツ愛好家に支えられている。今でもそうだが、古代より兵士のように「生業」自身が当該スポーツと隣接しているが故にアスリートとして続けられている人達も多い。兵士は国家がパトロンだ。
「皆さんのために」「皆さんに支えられて」
NPOの世界と相似している。
 
メモのメモ
本項とは直接関係しないが、冬スポーツに関連して別のテーマに繋がる二点を忘れないようにここでメモしておきたい。
一つは厳しさに「挑む」厳しさを「楽しむ」といった語彙だ。
雪や氷という環境は、スポーツを「楽しめる」場であったとしても、「生活」環境としては、ストレートには「楽しめる」といえる環境というよりは「厳しい」環境だ。スポーツとは何かというテーマの糸口がここにあるかもしれない。スポーツとは、厳しさに「挑んで」楽しむものなのか、厳しさを「利用」して楽しむものということか、あるいは、ただただ、厳しさに「挑む」といったものなのだろうか。一方において「優しさ」とくみするスポーツとはどういったものなのだろうか。
二つ目は、冬スポーツ、winter sports という概念だ。
冬スポーツの話題として有名なのは、バスケットボールが、花形の夏スポーツのアメ・フトのオフ・シーズン・スポーツとして考案されたことだ。冬スポーツ、イコール、冬季オリンピック種目ということの反証としてよく例示される。
いずれにしろ、バスケットは寒冷期にしかできないスポーツではなく、寒冷期にできない、寒冷期にしないスポーツの代わり、という、補完的・補集合的スポーツだ。NPONGOのようなものだ。
するスポーツ、見るスポーツ、見せるスポーツ、など、人とスポーツとの関係があって、それに、過大な金銭的負荷が大きく陰を落とすのがウィンター・スポーツだろうか。
逆に、夏スポーツはあるようでない。夏しかしないスポーツはあっても夏しかできないスポーツはないようだ。
本項に戻ろう。
 
その2 波浪・潮。
季節や寒暖に関係なく、自然地形故にできないスポーツもある。
内陸国、内陸部でのオープン・ウォーター・スイミングやサーフィングの普及は難しいだろう。月の恵みのある海、波浪が必要だ。鏡面のような水面では駄目だ。
潮汐力に抗う、もしくは委ねるスポーツだ。大自然にいかに立ち向かうかいかに身を任せるかだ。多くのスポーツが地球自身の重力との正反合だが、owsやサーフィングは月と地球の重力の三角関係によって成り立っている。
 
その3 重力。
多くの無重力空間でのスポーツSFは生んできたが、地球重力からの束縛を解くことができない人類にはそうしたものを実現できていない。ダイビングといった水中スポーツはそうした環境を半ば生む稀なスポーツだ。
宇宙空間、無重力空間でもほぼ同等に実現できるスポーツはあるのだろうか。
腕相撲。肘をついたり体を寄せる机のような重力とは無関係な平面を拠り所にするスポーツだが、これも机にぶら下がって重力を弾みにした遠心力を利用しているようだ。
スポーツは基本的に地球の重力と人体の正反合であって、地上や地球重力圏内でしか実現しないものだ。
 
2)生物的自然。生態系もしくは風土。
 
そうした気候とか地理といわれるものに左右される生物が含まれる自然が「生態系」、あるいは、その中でも「ヒト」をとりわけ特筆する「風土」とよばれるものだ。無生物界と生物界の合流する薄い地球表面周辺にある、汽水域のようなものだ。
 
その1 芝生。