titotito’s blog

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とりあえずスポーツについて考えるブログ『異文化・社会におけるスポーツ種目の斑模様』 その一

オリンピックが続いたということもあるがスポーツについて考えることが多くなった。多くの関心が期せずして繋がるからだ。非営利組織、国家論、プロフェッショナリズム、身体・言語表現、公正・公平・平等観といったことの関心だ。、、、

少しまとめ上げていこうと思う。ブログは性懲りもなく多産してきたが、はじめてhatenaを使ってみようと思う。

「観るスポーツとするスポーツの違和感」「絶対審判とフーリガン」「非営利とアマチュアリズム、ボランタリズム」といったテーマを最初に考えているが、様々な視座を整理する意味でも、先ずは「異文化・社会におけるスポーツの斑模様」からはじめたい。
オリンピックをみても明らかなように、国や性別をはじめ文化的、社会的背景の異同によって、好まれ、普及している種目が違う。そのことを少し考えてみることによって、併せて、このブログのテーマを見繕っていきたい。逆にスポーツや国、文化、非営利といったものの本質を浚ってみたい。
とりあえず「スポーツ」とは「スポーツ番組」や「スポーツ・チャンネル」などで「スポーツ」として扱われるもの「すべて」、と緩く範囲を決めておきたい。
では様々なスポーツの背景について考えはじめたい。
 
1.≪間接的環境―経済格差≫
貧者のスポーツと富者のスポーツの別があるのは明白だ。 施設、道具、空間、時間すなわちは金の大小によって左右のされ方の度合いの違いが種目により様々だ。
競泳、飛び込みのような競技の「場」がプールや飛び込み台といって特別仕立てのものが必要なものから、陸上のように身一つに近い競技まである。基本的には社会の経済力に先ずは左右される。
ヨットやボート、自転車や自動車、馬や駝鳥、果ては飛行機まで、人力のみやエンジン等によって動く乗り物、空手からライフルまでを使って戦うものまで、様々で、そうしたものが容易く入手できるかは基本的には個人の経済力だ。
例えば、日本からプロのアイスホッケーチームがなくなって久しい。国土や西武といった名前を知らない世代も増えてきたし、アイスホッケー場自身も消えていっている。
他方、レッドブル・エアーレースが日本で開催されるようになった。因みに、レッドブルはタイ起源のものにオーストリア人が日本のリポビタンDに着想を得て20世紀末に開発した「エナジー・ドリンク」という新興企業でモータースポーツをはじめ数多のスポーツをスポンサーしている。
オリンピックのみならず、多くの種目においてオリンピック出場権の一過程になっている国際大会の殆どが世界各地で開催されるため、移動費の負担に耐えられるかどうかも問題だ。今回のオリンピックでもナイジェリアのサッカーチームも給与がもらえず、高須クリニックが報奨を出すほどの事態になったが、そもそも、飛行機代を払えず、予定のフライトに乗り損ねたことから騒動が始まった。
時間という問題もある。2年おきの世界大会、ましてやオリンピックのような「祭典」は4年という長期周期故に、準備、整調のために企業や国家の支援の有無が「参加」の可否を含めての決定的要因になっている。
かつてのオリンピックでは「アマチュア」が基本であった。生計を得る「本業」があることが前提だった。大会出場のためはもとより、練習のための休暇取得すらとれないのが通常の生業だ。ボランティア活動でいわれることに似ている。
しかし、一部の企業が好んでか、利用するためかの理由はともかく、結果的には勤務時間の一部はもとより、全部を使用してのスポーツを認め始め、アマチュアリズムの境界が論争になっていった時期はまた、奇しくも、社会主義が勃興する時期として、スポーツ選手をも含めてなべて国家が雇い主として本格的に「労働者」として雇うようになり、揶揄と憧憬の入り混じったステート・アマチュアリズムという言葉が生まれるに至って、もはや論議は韜晦というしかなくなった。
報酬といった金銭のようなものにとどまらず、ハードやソフト両面にわたる現物供与も、ますます膨らんでいる。
靴や服装、用具にメーカーのロゴは溢れているし、目をつけられた選手には装備にメーカーが多大な手間暇金をかけているかといたことのみならず、様々な専従スタッフの派遣やデータの提供、提案などの「ソフト」面のサポートの逸話も年を追うごとに激しくなっている。
また、企業と言わず、例えば、リオのオリンピックでは日本政府が選手団のためにリオ・デ・ジャネイロ現地に建設費だけで8億円の「ハイパフォーマンスサポート・センター」を設置するなど、現場サポートだけでも1年度につき30-40億円かけているように「国家」のサポートも桁違いに「潤沢」になっている。日本選手団は338人だったので一人当たり年間1千万円以上だ。
 
2.≪直接的環境―自然、風土、世情≫
1)気候・地理もしくは鉱物的自然。
自然環境に左右されるスポーツもある。気候帯や地理の違いによって生じる、雪や氷の有無を始め、海や河川、平地や山地の有無、違いだ。
地球の球面表層という「舞台」とそこで気体循環、温度循環などによって起きる「ドラマ」の絡み合いによって左右されるスポーツだ。
 
その一 雪・氷。
ジャマイカのボブスレー・チームが映画「Cool Runnings」にまでなったことから象徴的に分かるように、冬季オリンピックの参加国、参加者を増やすのは容易くない
映画といえば古くは「Skis Against the Atom 原爆に抵抗するスキー」あるいは「But for These Men この男達なかりせば」がなければ、テレマーク滑降が北欧以外のスキー愛好者に知られることはなかったろう。
生涯、雪を味わうことがない人々、凍った水面の感触すら知らない:人々の数は少なくない。ましてや世界で「冬スポーツ」を楽しめる人の数は多寡が知れている。雪山や雪原でのスキーや橇が日常生活の一部となっている人達がいるとしても、全世界70億人弱の中では極めて少ない数の人達だ。
逆に、雪や氷のない国々でこうしたスポーツをしている人達は、経済的に恵まれているセレブの親兄弟がいたりパトロン・スポンサーがいるからこそであるというのが現実だ。
冬スポーツに限らず、どのスポーツも、「プロ」もしくは「生業」としてない限り、大なり小なり、様々なパトロン・スポンサーが「支えている」。教師やインストラクター等としてスポーツを生業としている人達は勿論のこと、企業の社員としてスポーツを続けている人達もスポーツ愛好家に支えられている。今でもそうだが、古代より兵士のように「生業」自身が当該スポーツと隣接しているが故にアスリートとして続けられている人達も多い。兵士は国家がパトロンだ。
「皆さんのために」「皆さんに支えられて」
NPOの世界と相似している。
 
メモのメモ
本項とは直接関係しないが、冬スポーツに関連して別のテーマに繋がる二点を忘れないようにここでメモしておきたい。
一つは厳しさに「挑む」厳しさを「楽しむ」といった語彙だ。
雪や氷という環境は、スポーツを「楽しめる」場であったとしても、「生活」環境としては、ストレートには「楽しめる」といえる環境というよりは「厳しい」環境だ。スポーツとは何かというテーマの糸口がここにあるかもしれない。スポーツとは、厳しさに「挑んで」楽しむものなのか、厳しさを「利用」して楽しむものということか、あるいは、ただただ、厳しさに「挑む」といったものなのだろうか。一方において「優しさ」とくみするスポーツとはどういったものなのだろうか。
二つ目は、冬スポーツ、winter sports という概念だ。
冬スポーツの話題として有名なのは、バスケットボールが、花形の夏スポーツのアメ・フトのオフ・シーズン・スポーツとして考案されたことだ。冬スポーツ、イコール、冬季オリンピック種目ということの反証としてよく例示される。
いずれにしろ、バスケットは寒冷期にしかできないスポーツではなく、寒冷期にできない、寒冷期にしないスポーツの代わり、という、補完的・補集合的スポーツだ。NPONGOのようなものだ。
するスポーツ、見るスポーツ、見せるスポーツ、など、人とスポーツとの関係があって、それに、過大な金銭的負荷が大きく陰を落とすのがウィンター・スポーツだろうか。
逆に、夏スポーツはあるようでない。夏しかしないスポーツはあっても夏しかできないスポーツはないようだ。
本項に戻ろう。
 
その2 波浪・潮。
季節や寒暖に関係なく、自然地形故にできないスポーツもある。
内陸国、内陸部でのオープン・ウォーター・スイミングやサーフィングの普及は難しいだろう。月の恵みのある海、波浪が必要だ。鏡面のような水面では駄目だ。
潮汐力に抗う、もしくは委ねるスポーツだ。大自然にいかに立ち向かうかいかに身を任せるかだ。多くのスポーツが地球自身の重力との正反合だが、owsやサーフィングは月と地球の重力の三角関係によって成り立っている。
 
その3 重力。
多くの無重力空間でのスポーツSFは生んできたが、地球重力からの束縛を解くことができない人類にはそうしたものを実現できていない。ダイビングといった水中スポーツはそうした環境を半ば生む稀なスポーツだ。
宇宙空間、無重力空間でもほぼ同等に実現できるスポーツはあるのだろうか。
腕相撲。肘をついたり体を寄せる机のような重力とは無関係な平面を拠り所にするスポーツだが、これも机にぶら下がって重力を弾みにした遠心力を利用しているようだ。
スポーツは基本的に地球の重力と人体の正反合であって、地上や地球重力圏内でしか実現しないものだ。
 
2)生物的自然。生態系もしくは風土。
 
そうした気候とか地理といわれるものに左右される生物が含まれる自然が「生態系」、あるいは、その中でも「ヒト」をとりわけ特筆する「風土」とよばれるものだ。無生物界と生物界の合流する薄い地球表面周辺にある、汽水域のようなものだ。
 
その1 芝生。